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赤い靴はいてた女の子2024年04月25日 17時08分08秒

横浜・山下公園にある「赤い靴はいてた女の子」の像です。 
1979年に「赤い靴を愛する市民の会⇒赤い靴記念文化事業団(現在は存在していないのかもしれません)」から寄贈されました。
赤い靴はいてた女の子の像
ちょっと悲しそうな表情の少女の像です。
1922年(大正11年)に発表された野口雨情作詩の童謡『赤い靴』のイメージをモチーフにして創られた像で、実話をもとに書かれた詩です。

『赤い靴』  作詞:野口雨情 作曲:本居長世

1、 赤い靴(くつ) 履いてた 女の子 
   異人(いじん)さんに 連れられて 行っちゃった
2、 横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 
   異人さんに 連れられて 行っちゃった 
3、 今では 青い目に なっちゃって 
   異人さんの お国に いるんだろう 
4、 赤い靴 見るたび 考える 
   異人さんに 逢(あ)うたび 考える

5、 生まれた 日本が 恋しくば 
   青い海眺めて ゐ(い)るんだらう 
   異人さんに たのんで 帰って来(こ)
(5番は公表はされなかったものの、1978年になって発見された草稿にあったものです)

この詩は、岩崎かよ の娘である佐野きみ(1902年7月15日 - 1911年9月15日)(佐野は戸籍上の姓)がモデルとされています。
野口雨情が札幌の新聞社に勤めていた1907年頃に岩崎かよ と親交があり、かよ から聞いた話を基に1921年にこの詩を創りました。(曲が完成して発表したのは1922年)

1907年頃 かよ は娘の きみ を養女に出し、その養育をアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託すことになりました。ヒュエット夫妻が本国に帰る事になった時 きみ も一緒にアメリカに渡ったと母親の かよ は思いこみ、渡米したと信じたまま一生を過ごしました。
実は、ヒュエット夫妻が本国に帰る事になった時 きみ は結核に冒されていて渡米できず、鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」に預けられることになったのです。そして、きみは孤児院で母親に会うこともできないまま、9歳で他界しました。
野口雨情は、娘がアメリカへ渡って生きていると信じ込んでいた母親の話を基に、この詩を創ったのです。

詩の内容も悲しい感じがしますが、そのもとになった現実はもっと悲しいものでした。

※ 以上は定説とされるもので、細かい事実関係で異論を唱える人もいます。

この像のミニチュア版は千個近く作られ、そのうちの一つは横浜駅の中央通路に設置されています。横浜の人は駅での待ち合わせ場所として活用しているのですが、ミニチュア版はかなり小さいのでその存在に気付く人は少ないようです。



最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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